皆さまはエイプリルフールのネタを作ってみたことがあるだろうか。私は生まれてこの方、やったことがない。ありもしないことを発信することに意味を感じないし、誰も傷つけずクスッと笑えるシャレの効いた冗談という、とてつもなく高いハードルに挑戦する気になれないからだ。欧米のユーモアを土台にした風習ゆえ、日本人には向かないのではないかと思っている。
さて、一部の障害者が事前連絡もなしに様々な場所へ乗り込み、対応してもらえなかったとSNSに不満をぶちまけて炎上する事態が最近続いている。それこそ、エイプリルフールの冗談ならよかったのにと思うような事態だ。またそれに伴って、障害者への合理的配慮の義務化もにわかに注目されている。そこで今回は、合理的配慮について思うところを書いてみたい。
私が学校での生活や、社会での仕事を続けていくためには、周囲のサポートが必要なことは言うまでもない。できる限り同じ条件で頑張りたいが、時には個別の対応をお願いするときもある。その方法やさじ加減を話し合って決めるプロセスを、私は子どもの頃から何度も経験してきた。その当時は合理的配慮などという言葉はなかったが、当然のように繰り返してきた。その中でも特に印象に残っているのが、中学校の宿泊行事に参加したときのことだ。2年で参加した長野への移動教室では、私が初参加だったためか、とにかく先生方の慎重さが目立った。
・友人達と同じバスに乗らず、父が運転する車で移動する
・夜は友人達とは別の部屋で父と一緒に寝る
という、宿泊行事の醍醐味を軒並み潰すような条件を出してきたからだ。前者は、途中で私がトイレに行きたくなったり体調が急変したりしたら困るからだという。後者に関しても、やはり夜間に何かあっては困るからだそうだ。それに加えて、友人に父を呼んできてもらうようなことが頻発し、その友人が寝不足から体調を崩すようなことがあってはいけないという理屈らしい。だが、バスでの移動中にトイレに行きたくなったり体調が急変したりしたら、困るのは私に限ったことではあるまい。また、私は夜間に何度も起きて家族を呼ばなければいけない事態になることは、ほとんどない。あまり納得はできなかったが、
・現地での短い距離、時間の移動の際に一緒にバス移動するタイミングをつくる
・夜以外の時間はクラスメイトの部屋で一緒に過ごす
という条件で妥協した。まずは行ってみることを優先したのである。その結果、特に大きな問題は起こらず、翌年(中3)の京都・奈良への修学旅行では友人達と同じ新幹線に乗り、夜も一緒に寝ることができた(父の部屋も隣に用意してはあった)。
この一連の出来事から、いくつかわかったことがある。まず、対応する側は当事者が考えている以上に当事者の生活実態を知らない。ゆえに、何が起こるかわからず不安なものなのだ。この例で言えば、先生方は授業中や学校内での私は見ていても家での私は見ていない。そのために、私に体調の波がないことも夜に何度も起きることがないことも、実感としてわからないのだ。そのギャップを埋めるためには、真摯に話し合うことに加えて、まずはやってみることである。当事者側が望む満点の対応ではなくても、きちんとできたという実績を積み重ねることで、互いの理解が深まり不安は小さくなっていくからだ。またそれによって、より当事者の望む対応を引き出せる可能性もある。
それから、対応する側は障害当事者のみに対応しているわけではない。私の先生方も生徒全員の安全を考え、無事に行事を終える責任を負っていたのだ。当時はわからなかったが、教員免許を取得し教育に関わる仕事をしている今ならば、先生方の慎重さもある程度理解できる。当事者はよく「相手(当事者)の立場に立って対応を考えてほしい」と言うが、それならば当事者側も対応してくれる人の立場を理解し配慮するよう心がけるべきなのだ。
2年ほど前のコラムでも書いたように、縮みゆく日本においてサービスを維持することは容易ではない。人手や予算の都合で特別な対応が(したくても)できない事態も、これから増えてくるだろう。現に、この2年間で東京メトロでは改札に駅員が常駐していない(インターホンで呼ばなければ来ない)駅が急激に増えた。明らかなサービスダウンであるし、改札には常に駅員が1人はいてほしいと私も思う。だが、この変更の裏には企業の経営判断や労働者の働き方改革など、様々な要因があることは想像に難くない。この動きは今のところ他の大手の鉄道会社では見られないが、遠くないうちに追随するところが出てくるだろう。私が憂慮していた事態が、現実のものとなりつつあるのだ。
事前連絡もなしに様々な場所に突撃し、自らが望む対応をしてもらえなければ差別だと騒ぎ立てるのは、誰にとってもメリットのない愚行だ。サービス維持が課題になっている今、そんな愚行を犯し、またそれを囃し立てるような人がいるのは悲しいことだ。私は、そのような人を当事者と呼びたくはない。自身の言動が周囲や社会に与える影響を想像しているとは思えず、当事者意識を微塵も感じないからだ。
“配慮”の義務化という、日本語として理解し難いワードを作った国のセンスはよくなかった。しかし、動き出してしまったからには社会全体にとってよいものにしなければなるまい。この政策がきちんと機能するかどうかは、対応する側よりも、むしろ支援を要する人々がきちんとした当事者意識を持ち、真の当事者へと脱皮できるかにかかっているのだ。一部の当事者の暴走によってこれ以上話し合いの余地が狭まることがないよう、心から祈るばかりである。
