我が家の近くに須賀神社という神社がある。数年前まではなんの変哲もない静かな神社で、たまにお参りに行くと、境内に私ひとりということも珍しくなかった。しかし、映画『君の名は』の中で描かれたことで(特に外国人の)観光客が急増した。最近では常に誰かいる状態で、心静かに祈る雰囲気ではなくなってしまった。地元の人間の私からすれば、「普通の神社だけど、楽しいの?」と思ってしまうのだが、いわゆる“聖地巡礼”のスポットとして楽しみに訪れるのだろう。私たちがよく行く諸外国のメジャーな観光地でも、はしゃぐ私たちを見ている地元の人は「楽しいのかねぇ?」などと思っているのかもしれない。
日本においても、今や外国人を見かけない日はほぼない。観光客はもちろんだが、最近ではコンビニの店員は外国人であることの方が多く、土木や建築の現場で見かけることも多い。さらに言えば、ヘルパーとしてケアに来てくれる外国人も増えた。好むと好まざるとに関わらず、彼らも私たちの生活を支える存在になりつつある。観光客としてお迎えしておもてなししているだけでよいのなら、ルールを守って楽しんでもらえればよい。しかし、スタッフとして働いてもらうとなると乗り越えなければならない課題は増える。ヘルパーとしてケアに来てもらうとなると、なおさらである。その難しさの大元にあるのは、共通認識の幅の狭さだと私は感じている。
たとえば、私たちにとってコンビニは単に買い物をする場というだけでなく、簡単な荷物の集配や各種料金の振り込みなど、様々な場面で利用する場だ。しかし、このことをきちんと理解している外国人のスタッフはどれくらいいるのだろうか。私も料金の振り込みやカタログ商品の注文をしたいとき、どうしてもレジを見渡して日本人のスタッフを探してしまう。大手のコンビニのように経験豊富なスタッフの名札が金縁になっているなどの目印がない限り、
「頼んでもどうせわからないだろうな、二度手間になるのは嫌だなぁ」
という思いがわいてしまうのだ。ご理解いただける読者も少なくないとは思う。ただ、この構図は私が常日頃批判している、乗車案内の際にヘルパーに真っ先に話しかける駅員とよく似ている。相手に確認しないまま
「外国人のスタッフにはどうせ細かい手続きはわからないだろう」
とか
「障害者はどうせ話ができないだろう」
という判断の下、失礼な振る舞いをしてしまっているのは同じだ。つまり、立場や環境の違う人同士がきちんとしたコミュニケーションをするためには、まず初めに互いの認識を合わせる努力を怠ってはならないのだ。そして、言葉も文化も違う外国人と様々な場面で認識を揃えていく作業は、互いにかなりのエネルギーを要する。
ヘルパーとして外国人にケアに来てもらうと、特にそれを強く感じるものだ。ケアを一通り覚えるまでは、多めに声かけをして確認を欠かさない。多少言葉がわからなくても、ジェスチャーや言い換え、「あれ」「そこ」などの指示語でなんとかなることも多い。ただ、袖(そで)や裾(すそ)などの基礎的な単語が通じないと、説明のしようがなくて困ることもある。ケアに関係する単語はできるだけ覚えてきてほしいが、逆に言えば覚えてしまえばいいので、言葉の問題は時間が経てば一定程度は解決する。
むしろ、言葉以外の部分の方が実は気になることが多い。私の上履きや、体を持ち上げるリフトに使うスリングシートを放り投げて片付ける外国人ヘルパーがいた。問いかける気力が湧かなかったが、自分の持ち物を放り投げられたらどう思うのか素朴に聞いてみたかった。私が乗った手押しの車椅子を押して買い物に行く際に、周囲の歩行者や自転車に対して一切道を譲らず突き進む人もいた。口では「すみません」と言うものの、「どけ」と言わんばかりにじりじりと前進し続けるのだ。周囲の冷たい視線が私に突き刺さるようで、今思い出しても胃が痛くなる。そのヘルパーは横断歩道での信号待ちでも、車道にはみ出して車椅子を止めていた。「危ないよ!」とすぐに言ったが、「ここは歩く人が通る場所だから大丈夫」と、交通ルールを都合のいいように解釈して言い訳していた。さすがにこれは危険ゆえ、管理者に抗議した。
また、慣れた外国籍のヘルパーと新しい(同郷の)ヘルパーが2人でケアに来たときに、車椅子を押しながらずっと母国語で会話していることがある。私の悪口を言っているんじゃないか、などと意地悪なことは考えないが、頭上で自分のわからない言葉でしゃべり続けられているのは、正直に言って気分は良くない。母国語で話せるのは気が休まるのは理解するが、利用者の前では控えめにしてほしいのが本音だ。言葉はある程度わかっていても自身のやりやすさ、心地よさを優先した振る舞いをするヘルパーとの付き合いは、かなりストレスフルなのである。
つまり、こと訪問介護のヘルパーにとって大切なのは、利用者の様子をよく観察してそれぞれの希望に沿ったケアを提供することなのだ。そして、これに国籍は関係ない。日本人でも首を傾げざるを得ないような人も少なくないからだ。統合課程の講義で口酸っぱく伝えているが、どこまで実行できるのか(しようとしてくれるのか)は受講者次第であることも事実だ。個人的には、訪問介護のヘルパーはかなり”人を選ぶ”仕事だと思っている。
マクロ視点で考えれば、高齢者の人口はもうすぐピークを迎え、今後10~15年ほどでピークアウトすると言われている。福祉分野の人手不足はさらに深刻になるだろう。ただ、だからと言って日本人のヘルパーばかり増えてしまうと、産業構造が歪んで社会が立ち行かなくなるおそれが強い。そんな背景もあって、国は外国人のヘルパーを増やして凌ごうとしていると私は推察している。その狙いはわからなくもないが、とりあえず人手が足りれば誰でもいいわけではないのだ。国や事業者はきちんと条件を整理し、適合する人を選ぶ仕組みを整備してほしい。自身が事業所を立ち上げない限り、利用者は直接ヘルパーを選ぶことはできないのだ。
おそらく、日本の人口減は止まらないだろう。私たちはこれから、さらに外国人との共生を真剣に考えなければならない。その時に、どんな立場、役割で迎えるかによって求めることが違うことを、改めて認識すべきだ。私たちの社会や生活に深く関わる人ほど求める内容は多くなることを、忘れてはならない。分け隔てなく来る人を迎えるおもてなしの精神は、たしかに素晴らしい。しかし、日本には「郷に入っては郷に従え」という言葉もある。人手が足りないからとりあえず来てほしいという今の国の姿勢は、禍根を残すのではないかという懸念を抱かずにはいられない。外国人に全てをこちらに合わせろというつもりはないが、せめて、できる限り歩み寄ろうと努力できる人を選ぶくらいの姿勢は、あってもいいのではないだろうか。
